西澤仁美、28歳。

外苑前にある某アパレル会社人事部にて
採用の仕事をしている。

人事の仕事がしたい!と思って、
25歳で今の会社に転職をしてから早3年。

念願だった新卒採用の仕事を任され、毎日忙しい日々を送っていた。

「あー、ぎりぎり間に合ったーー!!」

仁美は自宅がある最寄り駅:溝の口にあるスーパーに閉店間際に駆け込んだ。

いつも仕事は残業があってもMAX2時間程度。
遅くても21時には自宅に帰ってくるのだが、今の時期だけは別物。

採用業務と新入社員の入社・研修が重なる4月~5月は
新卒採用の仕事をしている仁美にとっては、まさに1年の中で一番の繁忙期だった。

「えーっと、夕飯は拓ちゃんが作ってくれているみたいだから、今日はビールを買
おう!ビール!!」

仁美はビールコーナーに急いだ。

「どれにしようかな・・・。うーん、いつもは発泡酒にしちゃうけど、今日は私仕
事頑張ったし、プレミアムモルツにしよう!!明日も頑張らないといけない1日だ
し、いいよね、ご褒美、ご褒美♥
あ、拓ちゃんもビールいるかなぁ?」

「もしもし、拓ちゃん?ビール飲む??プレモル買おうかなぁと思って。」

「今着いたの?溝の口。うーん、折角だから飲もうかな。」

「わかったー!じゃあ2本買って帰るね!」

「ただいまー」

仁美が拓と住む部屋に帰ってきたのは、23時35分。
もうすぐ時計が新しい日付を示そうとしている時間だった。

「おかえりー。遅かったね」

シャワーを浴びてジャージ姿の拓が玄関で出迎えてくれた。

「うん、研修会社さんとの打ち合わせの後に、明日の説明会の準備に手間取っちゃ
って・・・。はー、疲れたー。あ、ビール買ってきたよ!!飲もう、飲もう」

「お、ありがと!!」

「かんぱーい」

ビールを片手に仁美は冷蔵庫を開けた。

「あ、このサラダ食べていい?拓ちゃん、作ってくれのー、ありがとう!」

拓と仁美は昨年の11月に結婚したばかり。

結婚を機に一緒に住むことになり、昨年12月に溝の口にある今のマンションに引
っ越してきたのだった。

48平米、2LDK。家賃13万8000円。

拓も仁美も都内勤務で結婚するまでは、それぞれの職場に近い都内に住んでいた。
一人暮らしの時の間取りは1K。家賃は7万5,000円。職場には近いとはいえ、
築年数も経っていたし、ユニットバスでお風呂も決して快適とは言えなかったので、
結婚して選ぶ新居は拓にとっても仁美にとっても特別な部屋選びだった。

結婚したら、もっと広い家に住みたい!

一人暮らしの部屋選びで贅沢を言えなかった「駅チカ」や「おしゃれな内装」も叶えてくれるような部屋に住みたい!

それから、今後の二人の生活のために、ちゃんとお金も貯めたい!

そんな希望を持って始めた新居選び。

駅チカという願望が駅から徒歩10分という物件に変わったものの、
拓も仁美も今の部屋をとても満足していた。

広さと家賃のバランスはもちろん、
とにかく収納スペースが広くて多いこと!!

お互い一人暮らしをしていた二人にとっては、
それぞれの家から持ち寄ったものを入れても余るほどの収納力は
他の物件にはない魅力だった。

それから、嬉しかったのはカウンターキッチン。

自宅でご飯を食べることが多く、
カウンターキッチンに昔から憧れていたのだ。

きっと賃貸のうちは、
出会うことはないと思っていたカウンターキッチンが、
部屋の内見で目の前に現れたときは思わず声を上げてしまったほど。

「拓ちゃん、ここにしよう!」

その仁美の言葉で、この新居に決めたのだ。

「仁美さぁ、最近疲れてない?」

一緒にビールを飲んでいた拓の声のトーンが急に変わった。

「今一番忙しい時期なんだもん、仕方ないじゃん。拓ちゃんも知っているでしょ?」

「そうだけど、それにしても一緒に住んでから俺のほうが早く帰ってくることが多いし、そんなに無理して働かなくてもいいんじゃないの?」

「え?別に無理してないけど・・・」

「結婚したわけだし、もう少し働くペース落としてもいいんじゃないの?」

「私は今の仕事が楽しいの!拓ちゃんだって、別に結婚したからって働くペース落
としたりしないでしょ?なんで私にだけそういうこと言うの!?どうせ、私のほう
が帰り遅いし、ご飯も作ってもらっていること多いもんね。奥さんらしいこと出来
てなくてすみませんでした!!!」

仁美はおもむろにビールを
お気に入りのカウンターキッチンに置いて、
そのまま逃げるようにシャワーを浴びにいった。

ーなんで私ばっかり・・・ー

頑張っている自分が報われていない気がして、
むしゃくしゃしたまま仁美は拓に背を向けてベッドに入って眠りについた。

ー翌日ー

「おはようー」
気まずい気持ちでリビングに向かうと、
いつもいるはずの拓の姿がなかった。

テーブルの上に、
拓が用意したトーストが1枚。

その時、
携帯電話が鳴った。

どうやらLINEにメッセージが届いたらしい。

見ると拓からで、
ー今日は会議で朝早く出勤したからー

絵文字もなく、
ただ淡々と文字が並んでいた。

「はぁ、私言い過ぎたかなぁ・・・」

仁美のほうが仕事が忙しくて、
家で待つことが多い拓を見ていたので、
昨日の一言は拓の不満が現れたのかもしれない。

朝になって仁美は冷静に昨日のことを振り返った。

「でも、何て言って謝ろう・・・」

拓が朝早く出かけてしまい、
完全に謝るタイミングを失ってしまったのだ。

ー今日なんとか早めに帰ってきてご飯を作るか、それともお昼にLINEで先にサラッ
と言い過ぎたと謝ろうか・・・ー

拓とどのタイミングで仲直りするのか、
その方法を頭の中でぐるぐる考えながら
仁美は出勤の準備をして玄関を出た。

1Fに降りてマンションのエントランスに向かう途中、
いつも置かれているエントランス脇のウエルカムボードが目についた。

ーあれ?いつも気づかなかったけど、ここにいつもメッセージなんて書いてあった
け?ー

読んで見ると、
多分このマンションの大家さんが
書いたのだろう。

引っ越しの時にわざわざ顔を出して、
挨拶をしてくれたすごくフレンドリーな越水さん。

「4月になりました!!新学期の季節ですね!
良かったら新年度の目標をここに書いてくださいね!」

と、大きな文字で書かれていた。

大きな文字の脇に小さな文字で

「かんじをかけるようにがんばります!」

と、ひらがなだらけの字で書いてあるのを見つけた。

ここに住む子供が書いたのだろうか?

仁美は思わず笑ってしまった。

そして、
そのひらがなだらけの文字に
促されるように、

ー素直になる!ー

と、ウェルカムボードに書いた。

溝の口駅まで向かう下り坂を歩きながら、

・会社に着いたら仕事を始める前に拓にLINEを送ろう!
・いつも家で待っていてくれてありがとうと伝えよう!
・今日は早く帰ってきて拓の大好きなハンバーグを作ろう!

そう仁美は心に決めたのだった。

ほんの小さな夫婦のボタンの掛け違い。

案外仲直りのきっかけは、
他人の力によってもたらされるのかもしれません。

大家さんである越水さんが
用意をしてくれたウェルカムボード、
そして、ウェルカムボードを通じた人との交流。

それが、仁美の心を素直にしてくれたわけです。

家はただ住む場所ではなく、
人と人が集う交流をする場所。

会話を交わさなくても、
心が温かくなるきっかけが、
このマンションには用意されているのかもしれません。

fin