水曜日、21時。
都内の税理士事務所に勤める原田大智(はらだだいち)は、会社の最寄り駅から2駅で着く自宅マンションに帰宅するために、いつもの電車に乗った。
水曜日のこの時間は、帰宅ラッシュの時間が過ぎて、心なしか車両が空いている時間帯である。
電車に乗ってすぐに座れる席を見つけたものの、普段から運動好きの大智は電車移動は座らないと決めている。
別の入り口から乗ってきたスーツ姿のサラリーマンが我先にと、大智が目にした空席に座り込んでいく。その光景を見ながら、最近の大智は違和感を隠せないようになっていた。
~何故、みんな疲れた顔をしながら我先にと空いている席に座るのだろうか?~
~何故、会社員はスーツというトレードマークで通勤をするのだろうか?~
特に大智の職業、税理士はスーツ必須のような空気感が流れている。勤めている税理士事務所の中でも「スーツではなく、自分の好きな服を着てきても良いですか?」とは、言い出せないような雰囲気だ。
27歳で税理士として働き始めた大智は、最初は満員電車も、戦闘着のように身につけるスーツにも、何の疑問も持っていなかった。職業柄、決算時期になると季節労働者のように忙しくなるので、終電を逃しても徒歩か負担のない金額でタクシー帰りできる場所に住むという選択も、先輩を見習ってしてきた選択だ。
でも、最近は都心の中にいる自分に違和感を感じて仕方がない。
職場近くも自宅近くも代わり映えのない、コンクリートに囲まれた生活。ずっと住み続けるのはこの場所ではないということを無意識に自覚するようになっていた。
「ただいまー」
「おかえりなさいー」
明かりが灯る自宅に大智が帰ると、妻の香織が出迎えてくれた。
香織の職業はヨガインストラクター。3年前まで大手レッスンスタジオで正社員として働いていたが、不規則になりがちな生活スタイルを変えたいと、今ではフリーで働いている。そのため、平日の夕飯担当は香織である。
「大ちゃん、食べるの、ちょっと待ってね。今日のレシピ、Instagramに上げちゃうから。」
そう言うと、香織は慣れた手つきで今日の夕飯をスマホで撮り、加工をしてSNSにアップしていく。フリーになってから仕事用にと香織はSNSを始め、今ではレッスン生の8割が香織のInstagramを見て集まってきている。
そんな香織が楽しく仕事をしている様子を大智は隣で見ているうちに、ふと心の声が漏れていることに気づいた。
「俺も独立しようかな・・・」
その声を聞いた香織はこう返した。
「大ちゃんも十分経験を積んできたし、一人でやるのもいいと思うー。私も応援する!!」
「え?香織、そうなの?」
「どういうこと?」
「いや、俺が今の事務所辞めると、安定した収入じゃなくなるだろ。そういうの、心配するかなぁと思っていたから」
「そんなことないよー。むしろ、大ちゃんが独立願望があったことにびっくりした。初めて言ったよね、独立しようかなって。私は良いと思うよー。そもそも、大ちゃんが毎日スーツ姿で通勤しているのって、私にとっては少し違和感感じていたのも事実だし。元々、運動好きでスポーティーなタイプなんだから、無理に型にハマらなくてもいいんじゃない?ほら、フリーランス税理士とか、かっこよくない?」
「フリーランス税理士かぁ・・・」